小さい頃、父が家に居る時は、常に父のひざの上に座っていました。
はっきりとは覚えていないけど、私は体が小さかったので10歳すぎても、父の膝の上が定位置だったような気がします。
お客様がいらして食事をするときも、父が私を呼ぶので、父の膝の上で父とお客様との会話を聞いていました。
私にはいつも優しい父で、私は父に怒られた記憶がありません。
だから、思春期の頃も、父が疎ましいと思ったことはありませんでした。
その分、母には押し入れに入れられたり庭に出されたりと、よく叱られましたが・・
すごく優しくて何でも話してくれる父でしたが、学校の宿題だけは教えてくれませんでした。
わからない箇所を聞いても、百科事典や辞書を指さし、自分で調べなさいと言うだけ・・。
徹底して教えてくれない父に対して、私は「ケチ!教えてくれたっていいのに」とよく文句を言っていました。
人に聞くより自分で調べたほうが理解が深まるという親心もわからず、なんという娘でしょう。
父に対して口答えをする生意気な私でした。
大変苦労して育った父
「おまえは俺の母親にそっくりだ」
よく父が言っていました。
髪が天然パーマでくりくりなところや顔の目鼻立ち。
私が産まれた時には、すでに祖母も祖父も亡くなっていたので、写真も見たことがなく、どんな人だったかはわかりません。
父の母親である祖母は、父が4歳の時に結核になってしまい、7歳の時に亡くなったそうです。
結核がうつるからと、母親のそばには近寄れなかったと何度も話していました。
幼かった父は、きっとすごく寂しかったのでしょう。
隣の部屋からしか見ることができなかった母親の姿が忘れられなかったのかしれません。
そこから父の苦労が始まったようです。
祖父は、幼い父たちをほったらかし、いつもお酒ばかり飲んでいたそうです。
もともと祖父は公務員だったようですが、妻を亡くしたショックからか働かなくなり、お酒に溺れてしまったようです。
食べるものにも困るような生活だったようで、父と2人の伯父は学校から帰ったあと近所の農家の手伝いなどしてなんとか生活していたようです。
父が話す祖父は、ただの飲んだくれで幼い父たちが稼いだわずかなお金もかすめ取ってしまうほどひどい父親。
でも母の話によると、祖母が元気だったころは公務員として真面目に働いていたようです。
成績優秀で学校の先生に助けられた父
大正10年生まれの父。
お酒に溺れてしまった祖父からは、旧制中学(今の高校?)には行かなくていい、早く働けと言われていたようです。
しかし成績優秀だった父を見かねて、当時の学校の先生がなんとか勉強できるようにと、いろいろ骨をおってくださり、旧制中学で働けるようにしてくださったそうです。
掃除したり雑用する用務員の仕事です。
学校の仕事の合間に授業にも参加していいということで、生徒と用務員という特別な扱いだったようです。
生徒ではない父でしたが、あっという間にクラスで一番の成績になったらしく、結局、その先生が学費まで出してくださることになり、みんなより数か月遅れで入学したそうです。
父が卒業した旧制中学は、地元の熊本では今でも有名な進学校。
父が旧制中学を卒業できたのは、その先生のおかげと、すごく感謝していました。
父は陸軍士官学校を卒業しています。
子どもの頃、父親の学歴を聞かれ、陸軍士官学校と答えると、決まって優秀なのですねと言われるのが誇らしかったのを覚えています。
戦時中は航空隊の偵察機の操縦士として、多くの特攻隊員を見送ったとそうです。
子どもの頃、父親の学歴を聞かれ、陸軍士官学校と答えると、決まって優秀なのですねと言われるのが誇らしかったのを覚えています。
戦時中は航空隊の偵察機の操縦士として、多くの特攻隊員を見送ったとそうです。
父の話によると、偵察機の操縦士は試験の成績優秀者から選抜されたエリートとのこと。
人望熱き理想の上司だった父
戦後は、公職追放によりしばらく職に付けず、すごく苦労したそうですが、しばらくして後に地元の相互銀行になる会社に就職したそうです。
私が産まれた時、36歳だった父は、すでにその相互銀行の支店長でした。
成績の悪い支店や不正が疑われる支店など、立て直し役として転勤の連続でした。
短い時は半年、長くても2年で、次の支店に異動です。
だから私と兄は転校ばかり。
転校せずに入学から卒業まで同じ学校だったのは大学だけ。
幼稚園から高校まですべて転校しました。
履歴書の学歴のところに小学校入学から書いたら欄が足りません(笑)
まぁ 私の転校の話はまた今度書くとして・・・
話を父の話に戻すと
当時は、労働組合が活発だったようで、特に成績の悪い支店などはひどかったようです。
だから父が支店長として赴任するときは、職員側は敵視していたようで、どこの支店でも快く受け入れてもらえなかったそうです。
どうやって父が職員の人望を得て支店を立て直していったかというと、まずは職員と仲良くなることから始めたそうです。
そのために、お昼の食事や仕事が終わったあとの時間をうまく使っていたそうです。
仕事の話をするのではなく、1人1人の趣味や好きな事など、ひたすら話を聞いて、敵視している心をほぐし信頼を得ていたとのこと。
信頼を得ると、職員の方々の仕事ぶりも変わってきたとのこと。
時代を超えても、参考になる話だと感じています、
正義を貫き不正を正す
成績の悪い支店の中には、労働組合の問題ではなく何らかの不正によるものもあったようで、そんな支店の立て直しにも一役買っていたようです。
時には、前の支店長が社宅に居座ってしまい明け渡さないという、私たち家族に影響がある時もありました。
また、経営陣が職員を不当に扱う時には経営陣と戦ったりと、常に正義を貫き不正を正してきた人だと思います。
権力闘争に逆らった父は派閥争いの中で左遷を命ぜられ、それを拒否し銀行を退きました。
その後、自分で事業を興した父。
様々な経験をつんできた父のことは。まだまだ話がつきません・・・
ひとまず、ここまで。
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